昔、昔のその暮らし ― ある村の歴史から



前回お話しした四十八枚田にひっそりと立つ「田毎観音」 ― いつ頃のものだろう、古びた石像を見るとその昔の人々の暮らしぶりに思いをめぐらすことがある。

村の歴史

手元に一冊の書物がある。私が住む地区が村と呼ばれていた頃からの変遷を記した村史で、今から30年も前にある有力者を中心に歴史好きが揃って編纂したものらしい。埃をかぶっていたものを取り出してみるとなかなか面白いことがあるもので拾い出してみた。

以前にも記したように、 現在の千曲市のこの地区はかつて埴科郡と呼ばれていた(姨捨棚田のある千曲市八幡はかつての更級郡八幡村)。埴科郡の14村と更級郡の1村は江戸時代に徳川幕府の 直轄領(天領)であった。

800万石ともいわれる徳川家の領分は、その半分が旗本に与えられ、残り400万石が徳川家の天領地にあたる。その中で約5千石の領地にあたるこの地域は、千曲川がもたらす肥沃の地であり灌漑の便のよい土地である。

江戸時代の暮らしぶり

今から300年近く前の宝暦4(1754)年、この村には87戸、618人が暮らしていたという。現在は900戸近くで2千数百人だから、戸数は10倍に増えた。

当時の一年の一人あたりの生活資は米1石8斗〜2石、一日米5合といわれ、1石は10斗、米1俵が4斗であるから、4俵半〜5俵(270〜300kg)が一年分になる。この地域に限らず江戸時代の食糧事情を見るにつけ、こと農民は年中5合米を、しかも白米を食べていたわけではなく、制約の多い食卓が想像できる。

年貢に関しては、天和元(1681)年の村高が573石余り、取米(年貢米)が168石、その他雑税を含めても約33パーセントの貢租と、いわゆる「五公五民」よりは低率である。しかし、たびたび起きる千曲川の氾濫により田畑が流されることの多い土地であることからも容易な生活でなかったことが伺える。

農民の中にも豊かな層が生まれるようになると、和歌や俳句をたしなみ、学問をおさめようとするなど、文化の向上につながる動きも見られるようになった。それでも「質素倹約にし、家作り、衣類など身分相応にすること」などの仰渡しが出されることも度々あった時代である。

農民と土地

天領という土地は農民にもいくらかの優越感を与えていたようで、言い伝えではあるがなるほどと思わせることろがある。

松代藩の武士が、八幡宮に行くとき通り過ぎの百姓に道を尋ねた場合に、「足の向いている方向に歩きなされ」という暴言を吐いても、厳しいおとがめもなかった

時代劇であれば一騒ぎ起きるところが、これでは語り継ぎたくなるのも分かるような話である。どこか威を借りる性質はどこにでもあるもので、しかしそれが目立って表れるのはこうした背景があるとしたら納得できることと時々思うのだ。


代々の土地を意識することの少ない現代でも、土を耕す農民には受け継がれた土地を守る気持ちは強いものだ。ここで絶えてなるものかと年老いてもなお気がかりな人物が、下の田を守る主だ。

その田(写真)も米作りは今年で最後の気配。周囲は田んぼばかりだった土地も今やすっかり住宅地となり、為す術もなし。道端の観音様も見ているだけである。

― 今回で前編は終了。収穫後も話は続きます。次は2週間後に


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