上の田と下の田 ― 棚田ともう一つの田のこと

どんよりとした梅雨空 になると、もやがかかってまるで水の中にいるようにじっとりする。梅雨が進むにつれ、次第にこんな日が増えてくる。

梅雨空の棚田

今回は少しばかり棚田から離れ、もう一つ別の田の話をしておこう。無関係なようでも、棚田と関係があるかもしれない話である。

棚田で米を作ろうと思ったのは…

わが家はその昔、田に畑にと耕作を営む兼業農家であった。都市化に合わせて次第に農地を手放してしまったが、祖父の生家である本家では長らく水田をはじめ、果樹・花木まで農業を生業としてきた。その主も年齢をとり、小ぶりながら細々と続けているところへ、ちょうどいい手助けがやって来た。

お互い好都合な話で、こちらとしても米一袋もちょうだいすれば十分と、子どもの頃によく遊んだ田で手伝いを始めたわけである。棚田のオーナー制度に申し込んだのもちょうどその頃、手作業の田植えや稲刈りに懐かしさを感じたからかもしれない。こうして、長らく本家の田んぼと呼ばれた田は 下の田 と呼ばれるようになった。

田植えを待つ苗床

棚田よりひと月遅い田植え ― ここは古くからの
二毛作の名残か、今も遅く植える田が多い。
苗作りも手間だが、田植えは機械なので楽だ。

今や二反歩足らずの田から収穫した米の半分以上は売り物である。二反というと、上の田 ― つまり棚田のオーナー田は一畝(約100㎡)ほどだから、そのおよそ20枚分の広さだ。棚田の面積と収量については、またふれることがあるだろう。

棚田から見下ろすと、今でこそ近代的な市街地に変わった市内も昭和初期頃までは水田が広がる農村地帯であった。姨捨棚田は千曲市八幡、かつての更級郡八幡村にあり、私がいる地区は埴科郡と呼ばれていた。現在はともに千曲市の一部である。

姨捨から市内を眺める

棚田からの眺めは飽きることがない

その頃は姨捨に上がると「下の田」の本家の塀の白壁が見えたそうで、周囲は田んぼばかり であったことが想像できる。今のこの景色を眺めては、そう遠くない昔の風景を思い描くのも楽しいものだ。市街の背後にある小さな山は一重山、まん中の落ち込んだところは採石によるもので、以前はひとつながりだったという。

当時の一族が所有する田畑は数町歩に及んだとのことで(一町は一反の10倍)、中々のおダイジンであった。農地改革を経て、それが次第に縮小するさまを見ながら農業を営んできた当主は一族最後の農家である。意地のように米を作ってきたが、いよいよ「そんな時代じゃなくなった」とまで言い出した。半ばお遊びのように棚田で米を育てられることに感謝するばかりである。


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