町とそこにいた家族の記憶

町のおもかげ

昭和30年代の長野駅前

これは50年の間、机の中にしまわれていた写真である。すっかり姿を変えた長野駅前の昭和30年代後半とは、今そこを歩く人すら思いもしまい。写真とは酷なもので、多くの人で賑わう華やかなはずの街がすっかりくすんで見える。いや、これが本当で、目に映っていたのはわずかな部分だけだったのだ。


撮影した私の父は「兼業画家」をしていた。その作がこちら、これだけ描いて、あとは他所ばかり描いていた。それはさておき、記憶にある街はと聞かれたらこちらが思い浮かぶ。

人が思い描く街の姿は、歩いているとき、ふと立ち止まったときに目をやり、細部よりはその雰囲気を感じるものだ。そういう意味では、これが画家の仕事なのだ。

駅前や市内には絵になる場所はいくらもあるが、なぜこの場所を選んだかは当人しか知らない。左の「こおむら」のビルは、当時にしてだいぶ古びて見えるが、およそ形を変えず現在も建っている。改装したか、隣の建物もきれいに残っている。駅から何まで大きく変わった長野駅前で、半世紀以上も変わらぬ姿を残し、昔の町並みを思い出すことのできる数少ない場所である。そんなことをお見通しのようにも思える絵だ。

昭和中頃の更埴市

当時の千曲市、昭和のこの頃であれば更埴市(昭和34年に合併して更埴市になった)の市街のようすは残っていないかと探してみても、町の写真などは普段は撮らないものだから、なかなか見つからない。いくつか父が撮ったらしいものがあった。

これなどは何を撮りたかったのか、何もない景色。現在の市役所のあたりから東山(一重山)を見たもので、真ん中にあるのは昔の学校のようだ。周囲は田んぼばかりの頃である。

この道路沿いの家々も今や形をとどめず、かつての姿など知らない人々が車で通り過ぎる道路である。

悔やまれるのは、その後、なぜ今に至るまでの風景をもっと残しておかなかったのかということだ。家族や町並みが写った記憶。今でも残る建物を見るように、すべてを色濃く描き出してくれたであろう。

客人が訪れた記念と母娘。多くはこの世を去り、いずれ人の記憶からも消えてしまう。この家族のおもかげも、知らない人には風景の一部にすぎず、むしろ昔の町並みに興味を覚えるかもしれない。

この駅へ続く通りも、その後は交通量が増える一方であったから、お役所も道路を広げることに熱心で、町はすべて書き換えたように変わってしまった。


前回のお話

次回のお話

コメント

このブログの人気の投稿

夏支度 ― 暑さに備えるあれこれ

もうすぐ田植え ― どうなる米価格

そこはオラの田 ― 田んぼにも境界があるという話